喜久井町町会

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喜久井町の歴史


元町会長 渡 辺 利喜平


 このたび会員名簿改訂発行にあたり、会長から町の歴史を書くようにとの言
いつけである。不適任であるが、書くことにした。町の昔をしのぶことも無駄で
はないし、特に戦後住むようになった新しい会員各位や青少年諸君の語り草に
もなるよう、参考になれば幸です。
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 徳川時代「安政二年万世江戸鑑」を見ると、吾が町は馬場下横町と呼び、牛込
榎町、同大願寺門前、同中里町、同天神町、同馬場下町、同穴八幡表門前、同誓
閑寺門前、同西方寺門前、同来迎寺門前、同浄泉寺門前、同長久寺門前、の十二ヵ
町を馬場下横町に住んで居られた夏目小兵衛氏が名主として采配をふっていた
のである。同家は現在の喜久井町三番地を中心に広い屋敷であったようである。
明治、大正期の文豪夏目漱石先生は、その末子としてここで産声をあげたのである。
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 明治時代になって同二年に前記各町名の内、馬場下横町、誓閑寺門前、西方寺
門前、来迎寺門前、浄泉寺門前、供養塚町の六ヵ町を合わせて、新町名を、夏目
家の菊に井ゲタの定紋にちなんで喜久井町と命名せられ、同家前の坂を夏目坂
と称し、ここに本町が誕生したのである。当時小兵衛氏は東京第三十八区第四小
区の区長であった。
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 明治五年になって作洲津山藩松平家(当主康春氏)の下屋敷であった現在の十
九、二十、二十一、二十二番地と附近の開墾土地を合併されたのであって、当時
の戸口調査によると戸数百二十八戸、内士族二、僧侶七、平民百十九、寄留者九
戸(内士族四、平民五)、人口五百五十九、内男三百一人、女二百五十八人、寄
留者三十六人(男十九人、女十七人)、人力車十四輌とある。(新宿区誌に依る)
 注=津山藩主の祖は、越後高田三十五万石の結城秀康卿(中納言)で、有名な
宇都宮釣天井事件を起こした主人公である。そのために作洲津山藩十万
石に格下げ国替となる。元首相平沼騏一郎氏、元早稲田大学学長平沼淑郎
氏の御兄弟は同藩士であった関係で本町に永くお住みになって居られ
た。尚高田馬場駅より豊島区高田南町、新宿区高田町等附近一帯は中納言
の奥方の化粧料としての領地であったので「高田」の通称で呼ばれたもの
である。
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 二十番地にささやかではあるが「池立神社」という神社があり、社務所は町民

会館として町民の集会場を兼ねています。その本社は三河の国知立町に鎮座す
る知立神社であって、松平家の庭内神社(私的な神社)として永らく中央区蛎殻
町の本邸に奉祀されていたのを、明治十七年に本町二十三番地に移転せられ、同
二十二年に無格社(公的な神社)に昇格され、ついで現在の二十番地に移転奉祀
されたのであるが、昭和四年同家所有地を分譲するにあたり、相談の上奉祀方を
町会に受けつぎ、翌年神社拝殿の改築と同時に建坪四十坪の社務所を新築し、町
会の会議、結婚式、娯楽社交等のあらゆる文化の中心となって町発展の上に寄与
して来たが、惜しくも昭和二十年五月二十五日、戦災によって焼失し、永らくそ
のままになっていたところ、三十四年二月神社復興建設委員会が結成され、町在
住者と神社の縁故者各位の協力によって、三十六年三月、御神殿、社務所(町民
館を兼ねる)の完成を見た。尚御神殿は後に大美建設㈱社長小林美濃利氏が独力
で建立寄進されたものである。三十八年三月には東京都公認の高齢者クラブ(白
寿会)が結成せられ町の老人(町の発展、繁栄、美化等につくされた人々)の憩
いの殿堂としても喜ばれております。

喜久井町に生まれた文豪夏目漱石先生の著書「硝子戸の中」より本町に因縁の
ある部分を御紹介しておきます。
「今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。是は私の生まれた所だか
ら他の人よりもよく知っている。けれども私が家を出て方々漂浪して帰って来
た時にはその喜久井町が大分広がって何時の間にか根来の方まで延びていた。
私に縁故の深い此の名はあまり聞き慣れて育って所為か、ちっとも私の過去
を誘い出す懐かしい響を私に与えてくれない。然し書斎に独り座って頬杖をつ
いて、いま流れを下る船の様に心を自由に遊ばせておくと時々私の連想が喜久
井町の四字にぱたりと出合ったなり、そこで暫く低徊し始める事がある。此の町
は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改っ
た時か、それともずっと後になってからか、年代は確かに分らないが、何んでも
私の父が拵えたものに相違ないのである。私の家の定紋が井桁に菊なので、それ
に因んだ菊に井戸を使って喜久井町としたという話は父自身の口から聞いたの
か、又は他の者から教わったか、何しろ今でも私の耳に残っている。父は名主が
なくなってから一時区長という役を勤めていたので或はそんな自由も利いたか
も知れないが、それを誇りにした彼の虚栄心を今になって考えて見ると、嫌な心
持はとっくに消え去って、只微笑ましくなるだけである。父はまだその上に自宅
の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に自分の姓の夏目と
云う名を付けた。不幸にしてこれは喜久井町程有名にならず、只の坂として残っ
ている。
しかし此の間或る人が来て地図で此の辺の名前を調べたら夏目坂というのが

あったと云って話したから、ことによると父の付けた名前が今でも役に立って
いるのかも知れない。
私が早稲田に帰ってきたのは、東京を出てから何年振りになるだろう。私は今
の住居に移る前、家を探す目的であったか、又遠足の帰り道であったか、久し振
りで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の旧瓦が少し見えたのでまだ
生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
早稲田に移ってから私は又その門前を通って見た。表から覗くと、何んだかも
とと変らない様な気もしたが、門には思いもよらない下宿屋の看板がかかって
いた。私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。
私は根来の茶畠と竹薮を一目眺めたかった。
然しその痕跡はどこにも発見することが出来なかった。多分この辺だろうと
推測した私の見当は当っているのか、外れているのかそれさえ不明であった。
私は茫然として佇立した。何故私の家だけが過去の残骸の如くに存在してい
るのだろう。私は心のうちで早くそれが崩れてしまえばよいのにと思った。
『時』は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに何気なくそこを通
り過ぎると、私の家はきれいに取りこわされて、そのあとに新しい下宿屋が建て
られつつあった。その傍には質屋も出来ていた。質屋の前にはまばらな囲いをし
てその中に庭木が少し植えてあった。三本の松は見る影もなく枝を刈り込まれて、
殆ど畸形児の様になっていたが、どこか見覚えのある様な心持を私に起させた。
昔『影参差松三本の月夜かな』と詠ったのは、或は此の松の事ではなかったろ
うかと考えつつ私は家に帰った。」
註「硝子戸の中」は大正四年一月十三日より二月二十三日まで朝日新聞に連載。
尚本文の初め「私の住んでいる」というのは当町の東隣に続く早稲田南町の
事で「吾輩は猫である」で有名な猫塚は、現在都営アパートの東側にある。
なお、昭和四十一年二月九日は漱石先生の生誕百年祭と亡後五十年忌が新宿
区役所によって行われ、記念碑の除幕式、記念講演等も盛大に行われました。(当
町一番地と新宿文化会館にて)記念碑当町一番地加藤宅地に建立す

昭和二十年御月二十五日夜、アメリカ軍の空襲により本町は全焼し、多数の死
傷者が出て、旧来の居住者で一家全滅の悲運に見舞われた人々も少なくなく、特
に現在の早大理工学研究所のある丘の下に掘られた防空壕に避難した数百名の
人々は、熱風のため一人残らず窒息死したことは長く記録されなければならぬ
ことであると思います。
戦後毎年五月二十五日には当町各寺院と町会の協力で、戦歿者の慰霊祭が行
われております。
昭和三十七年六月

戦後の町会の歩みを顧みて
元町会長 岩瀬酉蔵
終戦二十二年昔流に云えば二昔。現在の第一部は元喜久美会と称え、三十四、
五、六番地の在住者でありました。発端は二十二年九月と思う。焼土に散在する
屋舎、壕舎合わせて四十世帯位になったか、電灯もまばら暗夜は道さえ分らな
かった。時たま疎開先から尋ねて来られても夜はダメ、物資も不足勝ち、焼跡に
どうやら雨露を凌ぐネグラは出来たが住居に対する安心感は無かった。それで
戦災前の居住者並に戦後に来られた方で、我が住む町を明るくすれば不便も無
くなり、犯罪も起こらないだろうと、佐内、布川、小松原、梅原、片山氏等に相
談したところ、双手を挙げて賛成せられました。そこで早速防犯街灯の建設に着
手、位置測量は三歩一間で(昔流の仮測量)中通りの公道に四本、現在の佐内整
髪院の通りに四本、文化湯の通り及び裏の通りに四本の計十二本の位置は定り
ました。
そこで箪笥町の区役所(元の牛込)の土木課長に会いに防犯街灯建設の事を話
した所、道路に建てると道路使用料を戴くと云われました。我々は町を明るくし
犯罪予防に建てる柱が電灯料の他に道路使用料を納めるのではたまらんという
ので要所要所の宅地内にお願いして防犯街灯の位置は定まった。ところで材料
の点で是また壁にぶつかった。ところが幸に柱については当時中央住宅建設会
社に居られた片山氏の特別のお骨折で出来ました。電灯器具及び工事は梅原幸
雄氏が引き受けてくれた。あとは建設資金と電灯料其の他の維持費の算段であ
る。建設資金は全居住者二〇〇円以上三〇〇円を拠出願う事(後に移転して来ら
れた人々には必ず二〇〇円戴くことで)電灯料金は毎月二十円宛戴いた。ところ
が会費が集らない内に電灯料の集金が来て、会計の布川さんは毎月立替払をす
るというあり様、其の後電灯料金の値上げ、防犯灯の増設の希望者も出る有様
で、会費も三〇円に上げて貰って、どうにか喜久美会も発展の一路をたどること
が出来た。
時たま他町の人々から、喜久井町には町会が三つあるのか(喜久和会、夏目坂
クラブ)との声が耳に入り始めたので三者の連絡会を十五日会(十五日に開くこ
と)に改め、段々と発展し、喜久井会となり、現在の喜久井町町会となりました。

明朗会について一言
終戦直後は、アメリカの為に英語が話せないとダメだと云うので、焼校舎の早
稲田小学校で毎週二回夜七時から二時間位英会話の講習会も開きました。講師
は林芳門氏(余丁町)、電灯は喜久井町の焼跡から引っぱる騒ぎ。当時の思い出
では加藤春治、軸屋矢吉、井原法洞の諸氏と私、他区へ移転された吉田基(三番
地)秋満多作(三十九番地)又他界された大坂即治氏等と数人であったか。当町
も戦前は七五九世帯の他に、下宿屋(今のアパート式?)も早稲田の学生相手で
三食付が十軒位(専業者)あった大きな町でした。
焼跡では食料不足を補う為に、三年間位にわか農業を行い作品物の展覧会を
公道上(感通寺前)に開き通行人に等級(点数)を投票して貰った事など、もろ
もろの作物は甘藷、南瓜、茄子、三ツ葉、胡瓜、トマト、イチゴ、馬鈴薯、小麦
など、特に小麦など製粉は秋満多作氏の一手引受けで大変助りました。其の他に
思い出は、住いのこと、暮らしのこと、人間関係のことなど、今から顧みると夢
の様です。よくも今日までも町の皆さんが努力せられたものと、人々の和の力に
今日を感謝いたしております。
(昭和四十二年三月十五日)

町会の歩みを顧みて
元町会長 加藤春治
此の度当町会名簿作成に当り、町会の歩んだ経過について述べさせていただ
きます。
一九八〇年町会の総会の席で役員の改選を行いましたが現役員全員留任との
事で決定しました。町会名簿も前号が昭和五十年に作製しましたので会員の転
出転入と移動が多くなりました。これを整備のため事業始めとして準備に当り
担当役員さんが組長の御協力で会員の申込を受け、出来上りましたので名簿屋
文洋社へ頼んで出来上りました。
五十五年度は町内大事業が会員の皆々様の御協力を得まして立派に達成し後
世に残る三大事業の記念に当ります。
第一、大人の神輿が先代の方々が新調されて六十年になりますので全体が弛
んで危険になり宮本神輿店に発注し四百五十万円で注文致し新品同様になり、
不足分は全部新規に取付け立派に出来上りました。九月十五日祭典に御披露致
しました。
第二、神輿蔵の建築、穴八幡神社境内に十二平方米の木造耐火建築瓦葺屋根、
前面全部両側二米迄御影の洗出しの立派に出来上り神輿三体と外祭具一式町内
専門用として現㈲丸忠工務店さんにお願いし予算が少ないため大変御負担をか
け犠牲を払って竣工していただきました。
諸経費共約弐百万円位です。
第三、池立神社の石鳥居建立ですが、婦人部に福々会を組織して清掃のゴミ減
量運動に協力し資源回収を行いかねてから計画して戦前神社鳥居が戦災で社殿
共焼失し、社殿は小林美濃利氏が社務所建築の折に立派な社殿を御寄贈下さい
ましたが神社には鳥居がないので何とか資金の確保にと五年間に亘り蓄積して
来ましたが各方面に援助しながら目安が着いたので町会に呼びかけ相談の結果
町会と福々会の名前で不足分を池立神社費で補っていただいて山本石材店にお
願いして百弐拾万円で立派に建立していただきました。町内をお護り下さる氏
神様です。さぞ神様も喜んでおられると思います。皆々様安心して過すのも神社
の御蔭です。折を見て御参拝下さい。
以上三大事業といたしました。皆々様の御協力有難う御座居ました。
最後に会員の益々の発展と御健康御多幸を祈念して挨拶といたします。
昭和六十一年七月吉日

 

 

 

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